2014.03.08

草津に歩みし人々・・・
♪草津よいとこ1度はおいで~♪と温泉、観光また、避暑地としても親しまれている草津町。 今からおよそ1800年余りの昔、大和朝の頃、日本武尊御東従帰途、草津温泉を発見されたとも、また大和国菅原寺の僧行基によって開かれたとも伝えられています。その後、鎌倉時代に至り、源頼朝公が三原の荘(現在の嬬恋村、草津町、旧六合村、長野原一帯と思われる)に巻き狩りの際、入浴されたといわれ、この頃から草津温泉の名が知れ渡り、「曽我物語」や「吾妻鏡」などの文献にもたびたびその名が記載されるようになっていきました。 また草津という名前の起源については、大般若経に「南方有名湯是草津湯」という一条から出た説や、草津の湯から発する硫化水素ガスの匂いから臭水と呼ばれ、年の移り変わりと共に草津という名に変化していったというような説もあります。   そんな長い歴史の中で、様々な著名人にも草津は親しまれてきました。そんな著名人の方々を少し紹介させていただきたいと思います。   やはり伝説としても名高い人物としては「日本武尊」。伝・大和時代東従の折、 古事記や  日本書紀で活躍する古代伝説最大の英雄です。草津周辺の山々を歩くうちに谷間にもうもうと立ち上る湯煙を見付け、この湯に入ったという逸話が日本武尊の草津開湯伝説になっています。       その後、鎌倉時代には建久4年(1193)、鎌倉幕府の創立者である源頼朝公。巻き狩りを行った際に草津にも足をのばし、湯を発見したとも伝えられており、この話は江戸時代の三原野狩関係の記事にも記載されています。また白旗の湯は源頼朝公の象徴、白旗から採ったものといわれています。     安土桃山時代には武将・豊臣秀次(天正16年・1588)や豊臣政権の五大老の一人・前田利家(慶長3年・1598)が草津へ訪れたとされています。   江戸時代の著名人では俳諧師・小林一茶(文化5年・1808)があまりにも有名です。紀行文「草津道の記」のなかの一句「湯けむりに ふすぼりもせぬ 月の貌」は石碑として御座之湯横の光泉寺階段横にきざまれています。   明治時代の中では白樺派の代表的作家・志賀直哉(明治37年・1904)。草津へは3度訪れています。最初は学生旅行。2度目は文名も高くなり始めた大正11年でしたが、当地を題材とした「草津温泉」では、番頭に農夫と間違えられたエピソードなども綴られています。最後は戦前に来草し、親交を深めていきました。名作「暗夜行路」の後半は草津で執筆されました。   大正には群馬県出身の小説家・平井晩村(大正7年・1918)。有名な草津節の原形の作詞者です。紀行文「湯けむり」の中で、「湯もみの拍子に合うやふな唄を」と思い立ち、「草津よいとこ里への土産 袖に湯花の香が残る」 「草津よいとこ 白根の雪に 暑さ知らずの風が吹く」という2つの歌を書き記しました。この歌碑は大滝乃湯に建てられています。   昭和に入ると数々の著名人の方々が草津を訪れるようになります。彫刻家・高村光太郎(昭和2年)、画家・竹久夢二(昭和4年)、歌人・与謝野晶子(昭和9年)、第34、38、39代内閣総理大臣・近衛文麿(昭和11年)、第61、62、63代内閣総理大臣・佐藤栄作(昭和22年)、プロレスラー・力道山(昭和35年)、俳優・石原裕次郎(昭和40年)など・・・その中でも、特記なのは昭和50年頃に温泉とスキーに足繁く草津に通ってくださった芸術家・岡本太郎。1970年の万国博覧会のシンボル「太陽の塔」の制作や「芸術は爆発だ」の名言でも有名です。岡本氏は草津町の都市計画の依頼を受け、上から見下ろすとひょうたん型に仕切られた形のような湯畑の造形監修、そしてその周辺の「遊歩といこいの場」の監修をしていただきました。湯畑を何気なく散策していると遊歩にブロックデザインがあります。また草津に歩みし百人と題した石柱、この全体の監修を岡本氏が行いました。   太古の昔から日本人は「お風呂」が大好きだったのだと思います。そしてそのお風呂の中でも「温泉」はまた格別だったのではないでしょうか。草津を訪れた、または訪れたとされる人々。草津が温泉という恵みを受けて、その効能や風土が育んできた歴史。草津温泉が掲げる「泉質主義」。このテーマをこれからも様々な人へお伝えしていきたいと思っております。   「御座之湯」 「大滝乃湯」 「西の河原露天風呂」・・・自然の恵みを受け、源泉かけ流しの温泉をお楽しみいただけます。是非、ご来館ください。お客様のお越しを心よりお待ちいたしております。     次回は、もうすぐ春ということで草津町の自然・・・山岳景勝や展望をお送りしていきたいと思っております。  
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